蔵王の梨を初出荷する当時の貴重な写真。後ろに積まれた箱が「ランプ箱」(蔵王町史より)
蔵王の梨 誕生の歴史
蔵王町の『梨』は明治の初め頃、山形から円田の谷地山に移り住んで来た人が、敷地内に梨の木を植え、果物の栽培が珍しいこの時代に見事に実らせました。
当時、円田村の役人をしていた佐々木初吉氏が、その梨の存在を知り、美味さに驚き、梨の試作に取り組んだとされております。
幾多の困難を乗り越えて
その当時は殺虫・殺菌消毒といった栽培技術が未熟なため、花は咲くが実がならなかったり、移植をするが日照りで枯れてしまったり、出荷するほどの量を生産するには至りませんでした。
試行錯誤を繰り返し、明治40年ごろ、屋敷脇の畑6eに植栽した梨の苗木が、大正2年になると、畑一面を覆うほど、たくさんの梨の実らせることに成功。
収穫された約150sの梨を木製の「ランプ箱」に詰め、仙台初出荷を祝い、家印の付けた化粧馬に積み、祝いの花火が打ちあがる中、旧円田村を出発したそうです。
梨園の開拓そして栽培へ
栽培の成功によって、当時盛んだった養蚕から梨栽培に切り替えようとする人々が増え、塩沢地区上原の共有林を借り受けた7人が2fの梨園を開墾・造成し、「長十郎、早生赤、八雲」といった品種を栽培したとされております。
当時の梨棚は、栗の木の丸太を支柱や張杭にし、針金を用いて棚を作っていました。棚の高さは2m40pほどあり、現在の梨棚より70pほど高く、袋掛け作業をする時は腰に木の箱を下げ40pも高い下駄を履いて作業をしていたそうです。
梨は大きな収入源へ
収穫した梨は、村田・大河原・白石の店に卸売りしたり、馬や鉄道で遠くは東京・大阪へも出荷しました。
自動車があまり普及していなかった大正時代、女性は背負篭に約37s、男性は天秤棒で56sの重い篭を担いで往復40qを売り歩いたとされており、梨売りは重労働ではありましたが、普通に働いた場合の1.5倍の稼ぎになり、果樹作りは、水田農家の何倍もの所得を上げていたとされております。
県内生産第一位へ
今年は、大正2年の記念すべき初出荷から百年を迎え栽培技術も県内の最先端をすすみ、昨年の蔵王産の梨の総出荷量1300tで栽培面積70f出荷額においても県内生産第1位になっています。
塩沢地区の齋藤さんの梨園は、町内梨園の中で最も古く、仙台市場に初出荷した大正2年と同じ年に開園しています。
その当時、植栽した梨の木9本が今もなお、「幸水・豊水・あきづき」といった品種の梨の実を付けています。
蔵王連峰の豊富な雪解け水と、水はけのよい肥沃な黒土に恵まれた蔵王町は東北有数の梨の産地となっており、毎年9月の週末になると近郊や遠くは関東方面からも旬の美味しい梨を買い求めに来ています。
『蔵王産の梨』ブランド化
8月6日「蔵王ブランド推進協議会」において蔵王産の「梨」が審議され、栽培基準はもとより、品質基準として4Lサイズ以上、糖度が12度以上の梨「梨」を蔵王ブランドとして認定することとなりました。
一世紀に渡る栽培技術の蓄積と、「JAみやぎ仙南蔵王梨選果場」における光センサーによって、より高品質なものを見極め、厳選したものを市場に出荷することになります。
JAみやぎ仙南蔵王地区
梨部会長 平間 裕喜さん(塩沢)
「蔵王の梨をたくさんのひとに美味しく食べてほしい」という思いを込めて、これまで生産してきました。
今年、めでたく梨の出荷100周年を迎えるにあたり盛大にみやぎ蔵王梨まつりを開催しますので、ぜひ各会場でお買い求めください。
梨の生産農家は平成11年をピークに減少しつつありますが、私たち生産農家はこれまでどおりの高品質の梨の栽培と、全国の市場において「蔵王ブランドの梨」を広められるよう努力して参ります。