写真で見る ふるさと いまむかし

第4回 小野さつき訓導殉職地(白鳥公園)

 町と白石市との境界を流れる白石川。川幅いっぱいに水をたたえ、河岸は人々が憩う河川公園となっています(写真@)。しかしこの場所は、今から92年前に起った悲しい出来事の舞台でもあります。今回は、小野さつき訓導殉職地の『いまむかし』を追いかけてみましょう。


@現在の白石川河畔。白鳥公園の愛称で親しまれています

 七ヶ宿町西部の蔵王山中にはじまり、材木岩や小原温泉、白石城などの傍らを過ぎて、わが町の南端を流れる白石川。昔は、松川と合流する手前一帯は広い河原になっていました。この河原は、日露戦争の時、対岸を通る東北本線で出征する兵隊さんを万歳三唱で見送ったことから「万歳河原」と呼ばれていました(写真A)。


A90年ほど前の白石川河畔「万歳河原」。映画「ああ小野訓導」撮影シーン
(画像提供:小野さつき訓導遺徳顕彰館)

 大正11年(92年前)の7月7日、宮小学校4年生56名は、写生の授業のため「万歳河原」へと出かけました。引率は小野さつき訓導(教師)。春に宮城女子師範学校を卒業したばかり、22歳の新任訓導でした。夏の日差しが照りつける河原は相当な暑さだったのでしょう、子どもたちにせがまれた小野訓導は、写生を終えた子どもから水辺で遊ぶことを許しました。
 小野訓導が写生を終えていない子どもたちを指導していたとき、急に子どもたちが騒ぎはじめました。見ると、深みにはまって流される3人の子どもの姿が!小野訓導すぐさま川に飛び込んで2人を助けたものの、残る1人を助けようとしたところで力尽き、帰らぬ人となってしまいました。
 宮村では、小野訓導の死を悼み、その勇気と自己犠牲をたたえて村葬をもって送ることとしました。三谷寺で行われた村葬では、文部大臣や県知事、新聞社などからの表彰をはじめ60通もの弔辞が寄せられ、一万人を超える会葬者が訪れたと伝えられています(写真B)。また、身をていして社会に尽くすことが美徳とされていた当時の風潮を受けて、この悲劇を描いた映画や読み物、唱歌などが作られ、美談として全国に広まりました。
 悲劇の舞台となった「万歳河原」は、昭和16年(73年前)、河原のすぐ下流に農業用水を得るためのせきが作られたため、水面下に没しました。現在は河岸が整備され、白鳥公園の愛称で親しまれる憩いの場になっています。冬になるとたくさんの白鳥が羽を休める様子が観察できます。
 白鳥公園近くの河畔には、小野訓導の遺徳をしのび、同様の悲劇が繰り返されないことを願って建立された、殉職地の標柱が立っています。毎年7月、宮小学校では、子どもたちが七夕飾りを作って殉職地にお参りし、冥福を祈る行事を続けています。


B村葬のようす。境内にあふれんばかりの会葬者が訪れました

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